トリノとチョコレートの濃密な関係Legame denso tra Torino e Cioccolatini
私の身体にはジャンドゥイオットが流れてるのよ!!Ho un po’ di Giandujotti nel mio sangue!!
私が暮らしているトリノには、やたらとチョコレートショップが多い。中心街をちょっと歩いただけでも、ここにも、あそこにも、あら、そこにも、という具合にチョコレートショップがあって、それはもう、旅人も歩けばチョコレート屋に当たる、という状態。日本の高級チョコレート市場は、ほとんどをフランスとベルギーが占めているが、そこでがんばる、数少ないイタリア高級ブランド「グイド・ゴビーノ」もあれば、ここのところ日本で売り出し中の「ヴェンキ」もある。その他にも創業100年を超えるような老舗、若手ショコラティエの新しいブティックなどなど、本当にチョコレート屋さんだらけのトリノである。
なぜそんなことになっているかというと、トリノとカカオの歴史に深―い関係があるに違いない、と私は思っている。
カカオのヨーロパ上陸は、1528年ごろ、新大陸から戻ったヘルナン・コルテスという人がスペイン宮廷にもたらしたのが最初とされているが、当時のスペイン王、カルロ5世という人はケチだったのか食い意地がはっていたのか、新大陸からやってきたそのおいしい飲み物(カカオは当時飲み物して使われており、固形チョコレートが発明されるのはずっと後)をかなり長い間スペイン王家だけで独占していたという。
そこでトリノのサヴォイア家の登場だ。サヴォイア家というのは1861年にイタリアを統一して「イタリア」という国を作った王家だが、トリノを本拠として1000年ぐらい続いた家系なので、トリノの人たちはそれをとても誇りにしている。当時のサヴォイア家の王子様、エマヌエレ・フィルベルトという人がスペイン軍に従軍し、一仕事終えて帰国する際カカオをもらって帰ったのだそうだ。それが1559年の話。このフィルベルトさんは、スペインの王様より気前がよかったようで、まずは貴族仲間にカカオをお勧めし、それが徐々に一般にも広まって、以後トリノではずっと、飲み物としてのカカオが流行し、愛されてきた。
今でも冬の飲み物といえばチョコレートを溶かした真っ黒い「チョコラータ・カルダ」だし、最近日本でも知られている「ビチェリン」は、この頃生まれたチョコレートベースのトリノ名物ドリンク。
ようやく700年代になると、トリノは他のヨーロッパの都市に先駆けて固形チョコレートの生産を始めたと言われているが、ここで登場するのがジャンドゥイオットである。日本にもショップをだしているトリノのチョコレート会社「カファレル」が、創業から間もない頃、イタリア統一の混乱でカカオが十分に輸入されないという緊急事態に陥った。その時、ええい! カカオが足りないならピエモンテ名産のノッチョーラ(ヘーゼルナッツ)で水増ししちゃえ! と発明したのがジャンドゥイオット。香ばしいヘーゼルナッツとカカオが混ざり合ったクリーミーなおいしさは、トリノ名物のチョコレートとして爆発的な人気を博し、全イタリアに広まった。今のトリノでは、ジャンドゥイオットを売っていないチョコレートショップを探すほうが難しいほど、どこへ行っても売っている。
と、こんな歴史を持つトリノ人たちの血の中には、ジャンドゥイオットが混ざっているのではないか、DNAにはカカオ因子が含まれているのではないか、と疑いたくなることが多い。彼らはジャンドゥイオットを前にすると理性は吹っ飛び、前後不覚に陥る。たとえばわが夫・トリノ人は10歳になる娘が大事にしまっておくジャンドゥイオットやチョコレートを残さず食べてしまい、パパ大嫌いと大泣きされるのは日常茶飯事。ああ、ごめんよごめんよ、パパが新しく買ってあげるよ、と買ってきてはまた自分で食べている。なんて大人げない、情けないと思っていたら、友人の夫も、またその親戚も、みんな似たような状況だという。この娘が9年前、復活祭にチョコレートの大きな卵をプレゼントされ、何であるかも分からないながらパクッと噛みついた写真は、この連載の第3回「復活祭とチョコレート」に使用させていただいた。あれこそチョコレートをDNAに持って生まれた者の本能としかいいようがないではないか。
こんな人たちが暮らすトリノだから、チョコレートを食べまくるには最適な環境が整っている。チョコレートを愛するそこのあなた、ぜひ一度お越しください。
文・宮本さやか フード・ジャーナリスト/イタリア トリノ在住